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ここはページの作者にとって大切なページです。出来るだけ正確な内容としたいため、現在調査をしております。 もし、与論に関しての資料(1900年以前)の話や資料をご存じであれば メールでお教え下さい。 内容が方言に関することであれば、 与論方言の研究・伝承者である菊千代さんにお伝えします。
与論島の歴史 与論島民話 重文十五夜踊り 与論方言 与論の歌
与論島の史跡 与論の民具 与論の習俗    
 
● 与論の歴史

与論に人が上陸したのは、3000年ほど昔と言われています。現在の 赤崎灯台のそば(アマンジョー)から 上陸して住み着いたものと伝えられています。
3,000年ほど前に上陸したといわれていますが、これも口伝のよう です。

以下、町田 原長、「与論島民族文化史資料」を参考にした。
西暦 所属・属国・
支配形態
コメント
奄美諸島時代 奄美世「あまんゆ」(--- 824)
-  616 日本の植民地時代  
616-  701 朝貢時代  
701-  824 大宰府管轄時代  
無所属時代 按司世「あじゆ」(824-1266)
天長元年(824)、 経済上の理由から大宰府の管轄外に放棄され、 琉球王朝に服属するまで約440年間、無所属時代が続きました。
このころは、按司(あじ)という首長たちの支配割拠する階級社 会が形成された時代で、「按司世」と称しています。
この時代、琉球との交流はあったと考えられるが、全く不明で ある。 また、無所属であるこの440年間は十分に固有の文化を作り出 すだけの環境にあったと思われるが、このサイトの筆者は、こ の考証となる資料を知らない。
琉球服属時代 那覇世「なはゆ」(1266-1609)
約440年間のこの時代は支配もなく、成熟した慣習によって営 まれていた時代で大変平和な時代であったとされている。
その 後の大和世が搾取の時代であり、苦しい時代であったことから この時代の生活はあこがれを込めて理想化されているのかも知 れない。 この時代の考証を行う資料は少ないが、多くの伝説が残ってい る。文化人類学的には極めて興味の深い時代である。
1266-1355 英祖王系の時代 英祖王の徳を慕って、その治世下に入る。英祖王系は、
英祖(1261-)−大成−英慈−玉城−西威(-1355)
1355-1405 北山王系の時代 琉球が三山(北山、中山、南山)に分かれて、その北山の支 配下に入る。
北山王系:怕尼芝(Haniji)−王民−挙安知(Han'anchi 1384-1416)
中山王系:察度(1355-1395)−武寧(1396-1406)
南山王系:承察度−汪応祖(Yasufu)−他魯毎(Tarumi 1383-1429)
1405-1470 第一尚氏の時代 琉球を統一した尚氏の時代
尚思紹(1405-1421)−尚巴志(1421-1439)− . . . −尚徳(1464-1469) の7代
1470-1609 第二尚氏の時代 琉球尚氏の時代
尚円(1470-1476)− . . −尚寧(1587-1620)− . . −尚泰(1848-1879) の19代
薩摩藩時代 大和世「やまとゆ」(1609-1871)
薩摩藩、島津家久が琉球を攻め、与論島以北を薩摩藩に編 入した。
琉球は、そのまま王国として存続させた。
在藩所による行政が行われた。
大島からは、サトウキビを年貢として収めさせ、搾取しつづけた。
1746 換糖上納 サトウキビで年貢として上納できるようになった。
1789 流刑地指定 奄美大島が流刑地指定として指定される。1800年与論人口 は3,357人。1800-1867に与論に流刑されたものは約20人。
1864 犬田布騒動 犬田布村で強引な年貢取り立てに反発した村民が反乱。 砂糖地獄の伝説となっている。
明治・大正・昭和 沖永良部支庁時代(1871-1946)
1900-1904 移住 人口増加(約6400)のため、長崎県口之津町へ集団移住
1909 与論村 町村制が実施されて誕生
米軍信託統治時代 (1946- 1953)
第二次大戦終了。敗戦により、奄美群島、沖縄諸島は 米軍軍政下に置かれた。
米国軍政下に置かれたため、戦後復興は本土復帰するまでの 8年間復興対策から放置され耐乏生活を余儀なくされました。
1944 満州開拓団 島民約600人が中国錦州省盤山に入植
1948 満州引き上げ団 島民約260人が鹿児島県田代町に集団移住
日本時代(1953-)
特別措置法により、復興、振興、振興開発と現在まで振興策が 講じられてきました。2001年では??。
1953 奄美群島返還  
1954 復興特別措置法、  
1962 与論町 町政を施行
 
● 与論の史跡 与論教育委員会の資料から
屋川(ヤゴー)
屋川(ヤゴー)
島の中央部、高所の城(グスク)に隣接した場所にあるわき水が出る場所。 ここのわき水は与論世之主が築城時代から使用されたと伝えられ, 城集落の生活用水として使用されていた。 また,この水は南海岸のウジジ浜に流出している。

ハミゴー

ジゴー

与論城跡
与論城跡と琴平神社は、島の南側の高台にあります。
西暦1405-1416年ころ琉球北山王怕尼芝の三男「与論世之主」が 築城中に、尚巴志により北山王が滅亡させられため、 築城は中止された。 未完成の城跡として、天然の三層の断崖とそれを結ぶ石段があり、 北端から東南へ200m余りの長さの石垣が残る。 この石垣は伏竜を型どったと伝えられている。
城跡 琴平神社
城跡 琴平神社

同じ場所には、サザンクロスセンターがある。
この場所に来ると、大きな鳥居に奉納相撲を行う土俵が目につくが、道の一番奥には、第二次大戦で犠牲となった人々が祭ってあり、その右側に、上野應介の碑がある。 与論の史跡場でもある。 その碑には

翁は安政元年城字名門上間邸に生まれ,天資聡明誠実,学徳高く既に美髯を蓄えた希有の君子で衆望集まり,明治13年戸長就任。以来21年間の戸長功績極めて多く,殊に教育の振興,農事の刷新,村医制創設や航路開始の便等,その不屈の開発魂と卓抜せる政治手腕は光彩を放ち,本島れい明期を飛躍的に進展させた。しかるに連年の風害は翁心痛みの種で就中31年の風災は前代未聞。時に起死回生の途を拓き,子孫永代の繁栄を図るべく私財を投じ自ら陣頭に立ち,長崎県口之津へ三度にわたり計750名の分村移民を断行,後,三池に定住させ移民の父として本土発展への大業を成す。こうして本村分村に至誠一貫生涯を捧げ,大正5年63歳世の巨星は開拓の地で他界なさる。ああ!その卓見と偉業は万古に映える霊峰の如く,恩愛深く屋川の泉のようにー。我らは今,2万余の与論民繁栄と往代移住を想い合わせ,島内外郷友斉しく翁の功徳を敬仰し,これを後世に伝えんと深く頭をたれ茲に碑を建つ。

とある。

◎ ウプドーナタの遺物
ウプドーナタの遺物
与論の勇者と伝えられるウプドーナタの遺物(母屋,高倉,着物入箱,刀入箱,手水鉢,力石,船置石)が朝戸に置いてあります。 ウプドーナタ(大道那太)は琉球北山王攀安知の頃,応永23(1616)年那太大主という役職(今で言うと知事)であった。 琉球近海の治安が不安定のために琉球国王より助力を求められる程の武人であり剛力の持ち主であった。 また海事にもすぐれた人物であったと伝えられている。


◎ アジニッチェー神社
与論のもう一人の勇者と伝えられるアジニッチェーを祀る神社。
この按司根津栄神社の由来は、次のように伝えられているが、 にわかに信じがたい部分もある。
アジニッチェー神社
今から800年ほど前,第33代清和天皇の後裔鎮西八郎源為朝公が, 伊豆の大島から九州経由で琉球列島へ赴く途中 与論島に立ち寄られ約3ヵ月滞在された。
与論の女神「ヌル」(当時30歳前後)との間に生まれた一子が 後に琉球王(沖縄の北山王)から 喜界七間切按司(喜界島から与論島までを司る王)に任ぜられ 按司根津栄と命名された。
按司根津栄は文武ともに優れ, 特に弓は父為朝公譲りの名手で, その弓勢は父に勝るとも劣らぬ強弓であった。 体格も父為朝公とほぼ同じく, 身長で二米強(現存する遺骨にて推定)もあり, 豪勇に加えて心の優しい民思いの心根を物語るエピソードも多い。
琉球王は按司根津栄の武勇に恐れをなし, 千人の兵を与論に派遣して按司根津栄を抹殺しようとしたが, 最後の一兵を残して全滅させられてしまった。 按司根津栄はその最後の一兵が年老いた飯炊きだったので殺さずに, 「これ以上戦いは望まぬ。」と王に伝えるように命じた。 そして、勝利の安堵感から赤佐の浜(今のキリスト教会のある前の浜)で一休みし ようとした瞬間, 飯炊きの老人が太陽に向けて放った一矢が頭に当たり, 一生を終えることになった。(頭蓋骨の矢の跡が按司根津栄の無念を伝えている。)
その後,老人の報告を受けた琉球王は, 按司根津栄の死を確かめるため千人の兵を再び与論に派遣したが, 武装したまま直立した按司根津栄の死体を生きているものと勘違いし, 混乱を来して全兵士とも沈んでしまった。 (こうして,生きて千人,死んで千人の話が残ることとなった。)
なお,生誕に際して種々の神話もあるが,実在の王であったことから説明を省略し,前述の武人の面影を偲ぶに止める。 しかし、わかった神話はここに追加して行きたい。
当神社近くに弓こひりの跡があり,また船倉海岸の浜宿の跡など,史実を物語る遺跡も多い。


アマンジョウアマンジョウ(奄水)
赤崎漁港に出る直前に、わき水が出ていた場所があり、 これをアマンジョウという。
与論にはじめて人が渡来してきたとき、この湧き水を見つけて ここに住んだとされている場所である。
海に住む者にとっては、真水が貴重品となる。灯火の油は魚油で賄える。真水が出る場所があれば 人は住める。 3000年ほど前と考えられる時代にはじめて上陸した人間は、 川のない与論が人の住める場所であるかどうかをこのアマンンジョウで判断したのかも知れない
 
● 与論方言
 
● 与論の歌
与論島慕情
あおい海原、きらめく珊瑚。。。。 与論を訪れた人は一度は聴いたはず。

民謡酒場かりゆし
茶花に 民謡酒場かりゆしがあります。 田畑テツヤカ(ヤカ:与論語でお兄さん)率いるかりゆしバンドがライブで演奏しています。 ボーカルの牧美也子さんの声が澄んできれいです。 島の夜の社交場でもあります。
是非一度は、島の歌を聴きに行ってください。楽しいこと請け合 いです。

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