与論島の習俗を観察してみると、各家庭には神棚を祭り、神仏を尊崇し先祖を敬慕してやまない、精神生活を知ることができる。
時代の変遷にともない今ではすでに廃れたものもや、形を替えながら伝えられて来ているものもある。
- 正月
正月を迎える準備として、大晦日に門松を立て七五三縄[しめなわ]を飾る。七五三縄には、松、木炭、蜜柑、昆布をつるす。昼の食事は豚肉の入ったまぜご飯である。元旦は、酒一対に三重杯と昆布干物を用意して、餅と豚肉の入った吸い物に刺身を添えたお膳を先祖にお供えする。来客には先ず三重杯と干物でご挨拶をし、お膳をさしあげる。正月とお盆には必ず、本家にご挨拶に行く。
- 三月三日(旧暦)
旧暦の三月三日には蓬餅(よもぎもち)をこしらえて、ご先祖にお供えをする。
この日は新生児のために一家揃って潮干狩りをする。この行事を「浜下り」とい
う。
女児にはソィガマという笊(ざる)、
男児にはティルという魚籠(びく)をもたせ、波打
ち際に足を海に浸けて水浴をさせて将来の健康と富貴を祈る。かつては家々によって潮干狩りの場所が決められており、そこに座をもうけ祝宴をひらいていた。
- お盆
旧暦の七月十三日より十五日までがお盆の行事である。
七月十三日に墓参りをして、「本日よりお盆に入りますので自宅でお饗しをさせ
ていただきます。」という旨述べる。
お供物として、花(時花)、香(線香)、水(清水)、酒、米(洗米)、他家よりの供物、家庭で料理した百味(山盛りにしたご飯、幼逝した者への握り飯、野菜、果物、魚介類を煮たり炊いたり焼いたりした物)等をお供えする。新仏には別盛りにして供える。また畳(筵)の上に子孫の絶えた霊など有縁無縁の精霊への供養の為としてサトウキビ、アダンの実を供える。アダンの実を供えるのは太古の人はアダンの実を常食としていたからとも伝える。
- 正月祭・八月祭
海等で水難のあった家では「正月祭(ショウガチトウトゥ)」といって、家族兄弟等で霊に供養する。これを懇ろに行わないと家族に祟りをもたらすとされる。以後毎年続ける。終ってから年始のご挨拶にでかける。
「八月祭(パチガチトウトゥ)」は、旧暦の八月一日から四日までの間に、生前に功績のあった人を供養する。例えば、為政者、役場の職員、大工、宗教関係者、十五夜踊りの当事者等。故人の男系が参列するのが原則である。
- 余談
与論島では先祖を祀るのに、神鏡を安置して、時花、線香、ご飯、水、茶湯等を
供えて柏手を打って礼拝する。なぜ神仏混合のこのような様式が伝わっているのであろうか。
我が国では仏教伝来(五三八年)以来、神仏習合の思想のもとで神と仏とは互いに交わり密接な関係を保ってきた。ところが明治政府の神仏分離の政策により、廃仏毀釈という社会現象を生み、一部の狂信的な人々によって寺院が破壊され、日本人の精神史上に混乱をまねいた時期があった。
与論島では明治の初期まで、沖縄の円覚寺の末寺である東寺(あがりでら)の下で祭祀が執り行われていた。明治六年に沖永良部島より神官が来島して、寺を破壊し仏像仏具を砕き、島内の仏壇や位牌を一か所に集めて焼却した。その際に位牌の代わりに神鏡を「今後はこれを位牌として祭るように」と手渡した。しかし、神式様は徹底せず、従来の仏式様の位牌が鏡に代っただけであった。既に当時(明治八年)より戒名が授けられており、島民は神鏡に先祖の御霊を宿して従来の祭り方をした。
神鏡を「イペ−」(位牌)といい、神官を「ボウジ」(坊主)と呼ぶ。さらに「チュナヌカ」(初七日、死後十日目の祭り)、「トウカナヌカ」(十日毎の祭りはいままで七日毎に行っていた祭りに相当するということ)等の言葉も残っており、与論島の特殊な事情を伺い知ることができる。
先祖供養には、花を供え香を焚き灯明を点すのが基本であるのに、ローソクを立てていない。
与論島では、明治十八年に石油がもたらされるまでは、島内には灯火に資する物がなく、沖縄より松の根を求め細かく裂いて「明かり」として用いており「火」はとても貴重なものであった。そこで、通夜や葬儀、三十三回忌など特別な時以外には、お供えしなかったのではなかろうか。あるいは、当初より省いていたのだろうか。本土で灯明にローソクが普及されるようになってからも、取り入れることはなかった。